YADOKARIがひらく「新しい住まいのかたち」|対談前編

MUJI VILLAGE プロジェクト | 2021.11.25

まちづくりやエリアリノベーションで引く手あまたのYADOKARI。「タイニーハウス」からスタートしたYADOKARIの誕生から、これまでの取り組み、そしてこれからについて、MUJI HOUSEの川内浩司がうかがいました。

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ソーシャルデザインカンパニー・YADOKARI

住まいと暮らし・働き方の原点を問い直し、これからを考えるソーシャルデザインカンパニー・YADOKARI。2013年の創業から9年目を迎えた今年2021年を第二創業期と位置づけ、「世界中のリビングコストをゼロにする」をMission 2030に新たな種まきの真っ最中。

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さわだいっせい
YADOKARI株式会社 代表取締役 CEO/共同創業者
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ウエスギセイタ
YADOKARI株式会社 代表取締役 COO/共同創業者
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川内 浩司
株式会社MUJI HOUSE取締役/「無印良品の家」住空間事業部開発部長/一級建築士
無印良品が考える感じ良い暮らしをかたちにすべく、新築注文住宅から、マンション、リノベーションまであらゆる「住まいのかたち」づくりに関わる。

今回のお話の舞台
『Tinys Yokohama Hinodecho』

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神奈川県横浜市の日ノ出町エリア、京浜急行電鉄の高架下を華やかに彩る『Tinys Yokohama Hinodecho』。コンテナを改造した全5棟のタイヤ付きタイニーハウスに、ホテル、カフェバー、そして水上アクティビティの拠点『Paddlers+』が入った複合施設だ。

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宿泊者はタイニーハウスを貸し切って夜通し女子会で盛り上がったり、カフェバーでハンバーガーやオリジナルのクラフトビールに舌鼓を打つ。目の前を流れる大岡川からSUP(スタンドアップパドル・サーフィン)で漕ぎ出せば、パドルの赴くまま、みなとみらいへと水上散歩も楽しめる。

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タイニーハウスを暮らすように体験してほしい。そんな思いから『Tinys Yokohama Hinodecho』を立ち上げたYADOKARI創業者たち。既成概念を覆し、新しい住まいのかたちを模索し創造し続けてきたトップランナーである彼らの哲学とは。

さらに、無印良品の家とYADOKARIが考える「リビングコストをゼロにする住まい方」とは。

創業前夜。ふたりの出会い

川内
まずはYADOKARIの紹介として、活動を始めたきっかけやターニングポイントをうかがいたいと思います。僕がYADOKARIを知ったのは、おふたりが世界中の小さな暮らしやタイニーハウスの事例をFacebookに上げているころだったんだけれども、あのときにどんな勝算があったのかなどもうかがえればと思っています。そもそもおふたりは、建築業界出身じゃないんですよね。

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さわださん(以下、敬称略)
Web業界出身です。僕らは、Web制作会社の同僚として2007年に出会いました。当時はどこのIT企業もそうでしたけど、朝から晩まで仕事漬けで、家に帰るのは風呂に入るときくらいで会社に寝泊まりしてという生活を送っていました。
出会った翌年にリーマン・ショックがきて、人員整理の一環で僕は会社をクビになったんですけど、当時はもう会社の仕事に疲弊しきっていたので、やっと会社から解放された、やった! という気分でした。
ウエスギさん(以下、敬称略)
クビをいわれた後、さわだはキラキラしていましたよね。僕は、新卒入社直後に、会社の方針で急遽正社員から個人事業主に変更され、固定給ではなく成果報酬的な働き方になったことで毎日死に物狂いでした。

きっかけは、東日本大震災だった

さわだ
クビになった後は、インド一周の旅に出ました。ありきたりですけど、インドは「呼ばれないと行けない」といいますし。

インドでは、貧富の差が激しくさまざまな社会課題はあるにしても、現地の人たちの明るい暮らしぶりを見て、お金は稼がなくても楽しそうに生きているのが素晴らしいと感じて帰ってきました。

帰国後はWeb制作の仕事を順調にいただけるようになり、Webデザイナーとして稼げるようになっていきました。もともとミュージシャンになろうと18歳で東京に出てきた僕は、上昇志向のかたまりで、セルフブランディングだと家賃20万円の恵比寿の一等地に住んで、そのために死ぬ思いで働いてお金を稼いでという暮らしをしていました。

そんなとき、地震(東日本大震災)がきたんです。

恵比寿のビルですごい揺れがきて、テレビをつけたら津波で、火事になったりしていた。家を流されてしまった人がいるなど社会問題に直面しているなかで、僕は高い家賃を払うために奥さんとゆっくり過ごす時間も取れないような仕事漬けの生き方をしていて、これって自分の本当にやりたいことなんだろうかという疑問が湧いてきたんです。

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さわだ
お金って何なんだろう。家って何なんだろう。生きるって何なんだろう。考え出したら止まらなくなってしまったときに、坂 茂さんのコンテナを活用した仮設住宅を見て、コンテナで充分じゃないかと思ったんです。

素人考えながら、コンテナを一個5万円で買えるんだったらそれをDIYして、動けるようにすれば安く自由に暮らせる。家のコストが下がった分、お金を稼ぐための仕事の時間を別のことに使える。お金はなくても、そのほうが幸せなんじゃないかという思いに至りました。

YADOKARI始動。タイニーハウスとの出会い

川内
家にすごいお金をかけて、そのために一生働いて、というのは違うんじゃないかということですね。そう思って動き出したのが、お金を抑えるための小さい家、タイニーハウスという発想だったということですか?
さわだ
そのときは、ただコンテナの家に興味を持ったんです。輸送できるというコンテナの性質にも関心があり、それが移動していくというのも面白い。これまでにない家のかたちだなと。性格的に世の中にないものをやりたいというのもありつつ、「安い」「動く」という意味合いが、コンテナに合致したというところです。

そんなふうにライフスタイルについて考え始めたときに、ウエスギから会社を辞めたいと相談がきたんです。ウエスギとは会社を辞めてからも、近況報告をしたり悩み相談したりとたびたび会っていました。この人は優秀なんで、その後も会社に残って出世していたんです。
ウエスギ
僕はさわだと出会った会社で、また社員に戻って働いていたんですが、疲れ切ってしまって転職しようかと悩んで相談しに行ったんです。
さわだ
転職はいいけど、もともとウエスギはインテリアが好きなんで、もっと手触り感のあるような、人を助けたり幸せにできていると感じられるようなことに関連した何かを、少しずつでも始めてみたらどうかなという話をしました。

それで、実際に手を動かして自分たちで家具をつくってみようということになって、ある工房がやっていたものづくり学校に通ってDIYの家具づくりをしてみることにしたんです。
ウエスギ
その学校からの帰り道のファミリーレストランで、先ほどのコンテナや坂さんの仮設住宅の話をしていて、それがすごく楽しかったんですよね。そのときに出てきたのが、「お金、場所、時間にしばられない暮らし」というフレーズで、そんな暮らしができたらめちゃめちゃいいねという話になったんです。

ふたりでコンテナのDIYアイデアを持ち寄ってスケッチを描いて、こんな家が300万円くらいでできないかと話しあったりして。
さわだ
そうそう。それで、ネット検索をしていろいろと調べていくと、世界には昔から文化として「小屋」がライフスタイルに取り入れられていたり、アメリカではリーマン・ショックのあおりを受けてタイニーハウス・ムーブメントが起こっていたりということがわかってきました。そこから、とくに先進国では若い人も含めて、「小さく暮らす」ということを求めていくようになるんじゃないかと考えるようになりました。

最初は、調べて見つけた世界のタイニーハウスの写真などをFacebookページにストックしているだけでしたが、ある時点からそれを公開し始めたんです。そうしたら、だんだん「いいね」がもらえるようになり、そのうちそれがすごい数になっていって。
ウエスギ
そのころから、取材して記事も書くようになりました。深夜0時まで本業で働いた後、0時から3時くらいまで記事を書いていました。日替わりで書いて、毎日一本ずつ記事を上げるということを2年くらいやったから、ふたりで合計800本くらいの記事を書きましたね。すごく楽しかった。
さわだ
戦略や勝算はまったくなく、お金が入ってくるわけでもなく、ただ好きだからやっていました。共感者が増えていくのも楽しかったんですよね。「住」というものに対して課題を持っている人がたくさんいるんだなというのは、後から気づいたことでした。

(後編へ続く)

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YADOKARIがひらく「新しい住まいのかたち」
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