わたしにとって最適な場所を探す旅

小さな住まい | 2018.3.13

無印良品と「小さな住まい」を一緒に考えるYADOKARIは、タイニーハウスや小屋についての情報発信をしてきました。また、タイニーハウスそのもののプロデュースやイベントの開催を通して、「小さな住まい」の魅力をたくさんのひとに届けてきました。
しかし、「小さな住まい」が、老若男女すべてのひとにとって最適な住まい方なのでしょうか。また、それらがいつも幸せな住まい方なのでしょうか。
例えば、筆者はいま、妻と息子とともに28m²の「小さな住まい」で小さな暮らしを実践しています。でも、たとえば、向こう10年この暮らしを続けられるかというと、正直あまり自信はありません。
それでも、私たちが未来の住まい方の可能性をタイニーハウスや小屋に託しているのはなぜでしょうか。それは、「小さな住まい」が私たちそれぞれにとっての「最適な住まい方」と「最適な場所」の道しるべになるからなのかもしれません。
今回のコラムでは、これまでお届けした連載を振り返って、「小さな住まい」が私たちひとりひとりにとってどんな役割があるのかを考えていきたいと思います。

「小さな住まい」は最適解ではない

「自分にとって最適な場所」はどこですか。
たとえば、それは海のそば、潮の香りが漂う場所。
森の中、新緑や澄んだ空気に癒やされる場所。
川のせせらぎに心あらわれる場所。
大切な人たちと大切な場所で、もっともっと自由に暮らしていきたい。
だからシンプルに考えよう。
もっとミニマルに生活しよう。
新しい場所で心が最適化されれば、心は解放され、
僕らはクリエイティブに生きられるはず。

YADOKARI「ミッション」(出典:YADOKARI

上に引用したのは、創業当初から掲げているYADOKARIの「ミッション」の一部です。
創業時に想定していたのは、「小さな住まい」が持つモビリティの可能性です。家が小さければ、自由にどこへでも運んでいける。車輪付きのモバイルハウスであれば、なお良し。夏には海へ、秋には山へ、家とともに旅する自由な暮らし方。そんなワクワクするイメージをタイニーハウスに託していました。

しかしながら、取り巻く環境は少しずつ変わっていきます。私たちもこの数年で結婚し、子どもが産まれました。昨年はまだ赤ちゃんだった子どもは立派な少年になった。時間の経過とともに、家に対する価値観は少しずつ変わっていきます。小さいことはいいことだ、と、昔に比べて言いづらくなった気がします。
もちろん、夢を諦めたわけではありません。いまもなお、モバイルハウスに乗って旅するように暮らしたいと願っているし、その方法をあらゆる角度から模索しています。でも、小さいことそれ自体は必ずしも最適解ではないんじゃないか。
そもそも、「小さな住まい」は、すべてのひとにとっての最適解ではありえません。小さい家が好きか、大きい家が好きか。あるいは、適しているかどうか。価値観は人それぞれです。
前回まで2回にわたってお届けしたインタビューのなかで、「無印良品の家」を開発したMUJI HOUSEの川内浩司さんはこのような問いを投げかけていました。

無印良品の家は、住むひとのためだけの「フルオーダー」の家を初めから目指していないのです。私たちは「世界でたったひとつの、あなたのためだけの家」はつくりません。「あなたのためだけの家」は、本当に良い家なのだろうか?
インタビュー「無印良品の家は小屋に似ている」(前編)

既存のハウスメーカーが宣伝する「あなたのための家」「たったひとつの家」というフレーズは一見すると魅力的です。一回きりの人生の一回きりの買い物で、「あなた」の夢と理想を体現するたったひとつの家をつくってみないか、と。
しかし、「買ったときにいろいろ考えて実現した“幸せ”は結局長続きしない。家族も人生をとりまく状況も変わっていくもの。」と川内さんはいいます。そのことと同じで、実は、「小さな住まい」が「すべてのひと」にとって、そして「いつでも」最適解とは限らない。

では、私たちが「小さな住まいに」あえて住まう意味はどこにあるのでしょうか。

「小さな住まい」連載コラムの第2回「家族のかたち、家のかたち」では、スクールバスを改造して全米を旅したジェイクとエイミーの家族を紹介しました。
旅をはじめる前にあらゆる物とお別れし、必要なものだけを積んで、大切な家族とともに6ヶ月間の旅をします。旅を終えたあと思い出の詰まったバスも手放し、長男は家族から巣立ち、彼らはまた新たな暮らしを始めました。
人生の節目ごとに大事なものや必要なものは変化します。そのときどきに原点に立ち返り、また新たなはじまりを迎える場所、それが「小さな住まい」なのかもしれません。スクールバスとその旅は、家族の原点に立ち返り、新たな暮らしのかたち、家族のかたちを見つけるための節目であり、通過点だったわけです。

「小さな住まい」は問いつづける場所

少しうがった視点に立って考えてみたいのは、そもそも、最適な場所あるいは最適な住まいは、本当に存在するのか、ということです。

世界中津々浦々に、住むことができる場所が無数にあります。私たちはみな、居住移転の自由を有しています。法律や経済などの条件付きではありますが、どこにだって住むことができるし、住まいを自由に選ぶことができる。住まい方には無数の選択肢がある。いくら多拠点居住を実践したところで、すべての住まい方を試すことはできません。つまり、「自分にとって最適な場所」に答えはないのかもしれません。

「小さな住まい」に住むならば、住む土地の選択肢が広がります。だからこそ、どこに住むか、という問いが常に付きまとう。そして、本当に大切なものは何かという問いにも付き合っていく。大事だと思っていたものが、本当に大事なものなのか。あるいはそんなに必要だと思っていなかったものが必要になるかもしれない。

近代建築の巨匠のひとり、ル・コルビュジエによる「カップ・マルタンの休暇小屋」。
数々の大型建築を手がけてきた巨匠が晩年、妻への贈りものとして建てた、たった8帖ほどの小屋です。彼は愛する妻の死後もたびたびここを訪れ、余生を過ごしたそうです。そして、彼自身はこのカップ・マルタンの地で、人生の幕を閉じます。この小屋で建築家は、何を想ったのでしょうか。

自分にとって最適な住まいとは何か。その問いに答えはありません。
「カップ・マルタンの休暇小屋」はやはり答えではなく、巨匠が出した問いそのものだったと思えてなりません。
皆さんにとっての最適な住まいは、どんな旅路を歩むのでしょうか。
ご意見をお聞かせください。